昨日は、ご縁を頂いて起業家コミュニティ・マ○テラスのセミナーに参加させて頂きました。女性活躍と呼ばれている今の時代のニーズを改めて肌で感じたかった。そして霧がかった僕の夢に磨きを掛け、実現の為の学びを深めたい。そんな思いもあって参加させて頂きました。お話頂いた方は僕にとっては雲の上の存在。崇高な理念を掲げ、社会に貢献し、それでいて自分の楽しいを仕事にしながら億万長者へと活躍の幅を広げている姿に感化されました。
ここ最近強く感じるのは、子育てをしながらも自分の人生を豊かに過ごしたいと望むママさんがどんどん増えて来てるということ。一昔前と比べてみも自分で作った雑貨や食品を手作り市やマルシェと呼ばれている催しの中で販売し、成果を上げられているプチ起業家ママさんが急激に増えてる。
その流れはこれから益々加速するだろうし、女性活躍の時代から→「女性大進撃の時代」がすぐそこまで来ている。
選択的消費がピークを迎えた先に訪れるもの。
それはきっと、“自分らしく活きる”と言う事なのだろう。豊かな時代であるが故にこれからは男性も女性も独自性(USP)を磨いて行かないと生きてはいけない。
“自分らしく活きる”と言う事は、実はとってもとってもシンプルで簡単なことなのに、自分でブロックをかけていることって以外と多い事に気づく。「○○らしく生きたい!でも活きていく事に抵抗を感じるママさんが多いのも、今の時代の特徴のように感じる。
「○○を犠牲にしてまで、自分のしたいことするのはちょっと・・・」
一歩を踏み出そうとした時、そう感じる人って以外と多い。
“自分らしく生きたい”の前提にあるものは、
(前者)既に自分らしく活きる事が出来ていて、更に磨きをかけていきたい人
(後者)自分らしく生きられていない、だから、活きてみたい
おおよそそんなことかな。
例えば、
・子どもを犠牲にしてまで・・・
・家族を犠牲にしてまで・・・
・今付いてる仕事を犠牲にしてまで・・・
・今やっている事を犠牲にしてまで・・・
・今の環境を犠牲にしてまで・・・
一つの愛の形として自分を犠牲にして、相手に与えるやさしさは確かに存在する。
だけど、
それは本当の幸せかというと???
自分はちょっと苦しいけど、相手が喜んでいるならそれでいい。
自分はちょっとしんどいけど、相手に楽しんでもらえるのならそれでいい。
相手の事をいっぱいいっぱい思って・・・、
相手の為をいっぱいいっぱい考えて・・・、
でも、
それが何十年も続いたらどうだろう・・・。
あのとき、〜すればよかったと、
後悔に繋がる事も少なからずあるように僕は感じる。
お互いが幸せであると言う事は、
どちらかの一方がしんどい思いを我慢するのではなく、
どちらかの一方が苦しい思いをし続けるのではなく、
お互いが“自分らしく活きる事”。
もしも、大切な人が叶えたい“夢”を持っていたとしましょう。
そして、あなたの為にその“夢”を諦めたとしましょう。
どんな気持ちになりますか?
心から、幸せを実感することができるでしょうか?
ちょっと立場を変えて考えて見ましょう。
もしも、あなたの両親があなたの為に夢ややりたい事を諦め、家族の為にと犠牲になって日常を過ごしていたとしたら何を思うでしょうか?
きっと幸せな気持ちにはならないのではないでしょうか。
子育てにおいても同じですね。
理解する力がまだまだ育めていない子どもの場合には、親の関わりがそのまま子どものリソースになってしまうことがあるものです。犠牲に生きる事が正しい生き方なんだだとの価値観を育ててしまってこと。
○○の為にと自分を犠牲にする人生が、
=「○○の為になっている」
○○の役に立っていると言うのは、実は、
こちらの船から眺めているあなただけの景色であって、相手からみたらそうだとは限らないらないことがあるものです。
それでいて、
○○の為に・・・は、「○○の為にこれだけのことをして上げてるのにー」の犠牲感に繋がりやすい側面をもってる。自分の見返りの為の行為でもあるってことです。自分が満足できないから、自分が犠牲になることで満足感を求めてしまう現象。(あくまで極論で書いてます^^)
まさに、ぐるぐるループ
中には、人を助けるのが使命です。という人もいます。自分がそうしたい意思の元、自己実現の領域で使命としている人はほんとに素晴らしい。
でも、かわいそうな人を助けるのが使命という人の心の中には、誰かを助けていないと不安だったり、怖いと感じる場合もありますね。助けていないと不安で、恐くて・・・。それでいて、可愛そうな人を助ける私とっても凄い人で、助けた人からは感謝して貰いたい・・・。そうでないと自分の存在価値を実感する事ができなくなってしまうぐるぐるループ。
助けていない自分には価値がないという自分の中の怖さを握りしめ、どんどん助けが必要なかわいそうな人を探し続けてしまうっていう使命にどんどんすり替わってしまうことがあるものです。
(あっ、ちょっと話しを戻すね)
「○○の為に・・・」という犠牲心には、自分の中の罪悪感から来ていることもたっくさんあるってこと。
◎じゃあどうすればいいの・・・?
僕は、自分の人生を犠牲にすることと、思いやることとは違うって思ってます。自分の意思で、考えて、決めて、そうしたいからする。子どもや家族や大切な人の事を考えて、自分の意思で選択した自己決定の意思は、犠牲感に繋がりにくいです。心底、そうしたいから尽くしたと考えることができれば、それはきっと誇りにも思えることでしょう。選択したことに責任を持つことができた時、“○○らしさ”に磨きがかかる。だって助けが必要な人だって世の中にはたくさんいるのだから。ここではスタンスのことね☆
僕が考える
“○○らしさ”に磨きを掛ける方法
それは、
「自分が自由に、楽しく生きること」
周りの人に幸せになって貰いたいなら、“自分が自由に、豊かに楽しく生きること”なんじゃないかなって思うんです。
言い換えるならそれは、
自分の沸き起こる感情を否定しないで、ありのままで在るということだともいえますね☆
・自分を犠牲にして人を助けるのではなくて、
・自分が自由に楽しく生きる事で、人が幸せになる。
自分を犠牲にして人を助けつづけることは、自分には価値のない人間っていう前提を強化してしまうよ。
だから、
自分が楽しいと思うことにチャレンジし続ける。すると、夢が持てない人の心には夢の種が膨らんで、
夢を既に持っている人には、結果としてみんなが幸せになっていくんだろうなぁって、僕は思うんです。
今日はちょっと極論で書いてしまった(汗)例外はたくさんあるんだろうけど・・・。
でも書いてしまった自分を否定しないのだ^^
僕が僕で在るために☆(←どっかで聴いた名曲♪ 笑)
沸き起こる感情を大事に、
もっと自由で、豊かで楽しい、自分らしい人生を歩いていこう☆